夕食時、食卓に並んだ私の渾身の作り置きメニューを前に、夫は眉をひそめた。「うーん、やっぱり解凍した肉は味が落ちるんだよな。出来立てが食べたいな。」その一言が、私の心臓をえぐり取った。妊娠8ヶ月。2歳児の育児とフルタイム勤務、さらに家事の全てをワンオペでこなす私にとって、週末に仕込む下味冷凍は、この地獄のような平日を乗り切るための唯一の希望だった。もう、身体は鉛のように重く、朝起きるたびに吐き気がこみ上げる。仕事中も、子どもの迎えの時間ばかり気になり、帰宅すれば「ママ！」と飛びついてくる2歳児の相手をしながら、夕食の準備に追われる。
週末、やっと訪れるはずの休息は、大量の食材を買い込み、ひたすら肉を切り、野菜を刻み、調味料を揉み込む作業に消えていく。その間も、上の子を相手し、お腹の張りを感じながら、次の平日の自分を少しでも楽にしようと必死だった。たった数時間でも、その作業に集中すれば、平日の夕食準備が15分でも短縮できる。その15分が、今の私には砂漠の中のオアシスのように尊かった。
それなのに、夫の口から出たのは、そんな私の努力を真っ向から否定する言葉だった。
「嘘でしょ…？この一言のために、私は週末を削って、お腹の子にも負担をかけて、必死で頑張ってるのに…！私の努力は、あなたにとってそんなに価値がないの？もうダメかもしれない…こんな毎日、いつまで続くの？なぜ私だけがこんなに苦しい思いをしなきゃいけないの…？」
私の心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。怒り、悲しみ、そして深い絶望感が、鉛のように胃の底に沈んでいく。喉元まで出かかった「じゃあ、あなたが作ってよ！」という言葉を、必死で飲み込んだ。言ったところで、また「疲れてるんだから無理するな」と、私を労わるフリをして、結局何も変わらないことを知っているからだ。この孤独感は、誰にも理解されない。
彼の「出来立てが食べたい」というたった一つのこだわりが、私をどれだけ追い詰めているか、彼は想像すらしていないのだろう。食卓の風景は、夫婦の現状を映す鏡だ。彼のわがままは、私の見えない家事育児の労力への無理解、そして夫婦間の「負担の不均衡」そのものだった。このままでは、心身ともに限界を迎えるだけでなく、夫婦関係も破綻してしまう。そんな危機感が、私の中に芽生えた。
もう、彼の理想に合わせることはできない。いや、合わせる必要はないのだ。この状況を変えるには、私自身の意識を変え、行動するしかない。
まずは、冷静に、しかし明確に、自分の置かれている状況を夫に伝えることから始めた。「ねえ、私にとって作り置きは、あなたと子どもたちを想う時間と、私自身の体力を守るための工夫なの。それを『味が落ちる』と否定されると、心が折れてしまう。今の私には、これが精一杯なの。」感情的にならず、事実と自分の感情を伝えることに徹した。
そして、「出来立てが食べたい」という彼の要望を、今度は彼自身の問題として捉え直してもらった。「もし出来立てが食べたいなら、あなたが作ってくれる？それとも、ご飯を炊いたり、簡単な汁物だけでも作ってくれたりする？」と、具体的な行動を促した。最初は戸惑っていた夫も、私が具体的に「何をしてほしいか」を伝えると、少しずつ動き始めた。週末には子どもを連れて公園に行ってもらい、私が作り置きに集中できる時間を作ってもらう。食材の買い出しも彼が担当するようになった。
完璧な「出来立て」の食卓は、今の私たちには目指すべきゴールではない。お互いの状況を理解し、尊重し合い、協力し合うことこそが、本当の意味での「豊かな食卓」を築く一歩なのだ。もし今、あなたが私と同じように、見えない努力をパートナーに否定され、孤独な怒りに震えているなら、思い出してほしい。あなたの価値は、彼の「出来立て」というわがままな基準で測られるものではない。あなたの心身と、家族の未来のために、一歩踏み出す勇気を持ってほしい。あなたは、一人じゃない。そして、あなたの努力は決して無駄ではない。
